あっとほーむ 直送版
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施設長の阿です。 「織機」
お一人、お一人が紡いでくださった糸、年を重ねた味わい深い色で染上げてくださった糸を経糸にし、一織り一織り丁寧に織り上げています。今日ここ緑寿園でめぐり合い、支え合えたことに感謝します。
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施設長の阿です。 line line
平成14年 9月号 敬老の日特集 簡単クッキング 転倒防止体操
※あっとほーむ直送版では発行当時のままに配信しているため、一部に古い情報が使用されておりますことを予めご理解いただきますようお願い申し上げます。


「敬老の日」おめでとうございます。 緑寿園園長 阿 和嘉男
今年は明治四五年生まれの方が「卆寿」となり、そして大正生まれの方が初めて「卆寿」を迎えられます。明治生まれの方が全て90歳を超えられ、次の時代である大正生まれの方が90歳を超えていくことになります。さらに、後期高齢者は明治・大正生まれ。前期高齢者は昭和生まれと、世代区分がはっきりしてきました。

人は、それぞれの時代の影響を受け、世代としての同一性をもちながら年を重ねていきます。しかし、これからは明治・大正・昭和といった世代区分ではなくより細かな世代区分になります。多くの世代が共生する時代、世代を繋げる「大きな力のある言葉」が必要となってきました。

私の人生まだまだこれから・・・! 淵脇悦子様
渕脇さんは、昭和8年生まれの69歳。ご主人と二人暮らしです。

元気そのもので過ごしていた65歳の時、脳出血を起こしてしまいました。出血部位は視床下部(ししょうかぶ)という、感覚や平衡感覚などをつかさどる器官です。このため、右半身の不全麻痺に加え、様々な感覚(痛み、温度、光、音など)の障害が出てしまいました。リハビリの成果で身体機能は回復し、身の回りの事はだいたいできるようになりましたが、感覚障害は強く残り、ちょっとした光や音に耐えられない、冷たさや寒さ、熱さが辛くて、水に触れられない、コンロや冷蔵庫が扱えない、真夏なのに汗びっしょりになりながら電気毛布にくるまり、寝たまま食事を食べさせてもらうという状況でした。もともと楽天的で明るい性格なのに、悪い事しか考えられなくなり、泣いたり、家族にあたったり…。その後、あまりの痛み、辛さに耐えられず入院。処方された薬で症状はかなり緩和されたものの、しばらくして今度は薬疹が出てしまい、服用中止となってしまいました。

しかし、その後、薬は全く飲まずに、なぜか症状はかなりおさまっています。


秋の紅葉入院した時、医師から「視床下部の脳出血だと感覚障害はつきもの。たぶん一生治らないだろう。」とはっきり告げられました。いつかは治ると信じていただけにとてもショックでした。でも苦悶の末「治らないのならしかたがない。これからは、この痛みや辛さとどう付き合っていくかを考えよう」という考えに至ったとおっしゃいます。その「開き直り」が身体にも力を与えてくれたのでしょうか。

服薬を止めてから丸2年経ち、徐々に「できる事」を増やしてきました。ベッドを離れ食堂で食事を取れるようになった、冷蔵庫を開けられるようになった、庭に出られるようになった、と、ほんの些細な事が喜びと自信につながります。「できる事」は徐々に広がり、生活の範囲も拡大していきました。そして去年の春にはなんとフラダンスを習いはじめ、趣味の絵画を再開し、今年の夏にはスイミングクラブに登録するまでになったのです。そのステップアップの影には、常に支えてくれたご家族、助けてくれた友人たち、プロとして援助してくれたヘルパーさんたちの力がありました。

自宅へお伺いすると、初めの頃のげっそりとしたお顔がもう思い出せないほどに、にこにこと出迎えて下さいます。緩和されたとはいえ、痛みや感覚障害は依然として強くあり、なかなか他人にはそれをわかってもらえない、など辛い面はありますが、「いくつになっても先の人生がある。まだまだこれからよ!」と常に前向きにこれからの人生の計画をたてようとしておられます。

老いる自己を敬う ケアセンター職員 三浦正信
「生老病死」―四苦(八苦)。その苦とはおもうようにならない現実の中で、自分の欲や都合を先とするために、身も心ももがき苦しむ様をいう。生きるというは老いることでもあるのに、心は「いつまでも若くありたい」と欲する。そこに苦が生じてくる。我欲を少なくしたいものです。

わかってはいても、私たちはなかなかその苦という場より脱することができない。(ブッダ・仏教はその脱する道を説くのだが)―でも、もし「老いる」ということをマイナスにではなく、あたりまえの命の力としてプラスに考えることができたなら、そこには大いなる学びがあるように思う。「老」「死」とはだれにでも共通する、命の姿であり「はたらき」でもあるのだから。若さも、老いも一時の位。
職員の三浦
「敬老」というのは、「敬いましょう」というような道徳的なことではない。老いるということは人生の学びであろうと思う。若いときにはみえなかったものが、生き方をスローダウンすることで、人生を重ねることで本当のものに気づくようになる。老いるということも力なのです。たとえ全体の力が弱くなろうとも、残っている力こそが大事なのです。「敬う」ということは、他人からしてもらうことではなく、自分で自己を敬うことであり、自己を習う(学ぶ)ことであると思います。そこではじめて他の老いも敬うことができるのです。老いは突然やってくるのではない。生き方・いのちそのものなのです。




敬老の日 簡単クッキング 転倒防止体操

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