あっとほーむ 直送版
最新号に戻る
line line line
副園長の小川です。 早いもので今年も緑寿園ゆかりのお年寄のこの一年の間に亡くなられた方々のご供養をさせていただく供養祭が7月5日(土)に執り行われることになりました。明治・大正・昭和いづれも激動と戦乱とそして多くの犠牲の中での平和を迎えられ、苦難の道を歩みながら人生を全うされたお年寄の方々の「今将頂礼」とお祈りをしたい。(副園長 小川 茂) line
副園長の小川です。 line line
平成15年7月号
供養祭によせて 自立した生活 2002年度会計報告
※あっとほーむ直送版では発行当時のままに配信しているため、
 一部に古い情報が使用されておりますことを予めご理解いただきますようお願い申し上げます。



「母のこと」  杉山 由
母が東京にやって来たのは十五年ほど前のことです。
私が小学生の頃に父が亡くなってから、女手ひとつで私を育てた母も当時六十五歳、ひとり暮しでは何かと大変なことも多くなり、心配した私が呼寄せました。

父が亡くなってからの母の頑張りは大変なものだったと思います。いつも明るく前向きに人生を楽しんだ人でしたが、子供の私には見せない苦労もあったことでしょう。私も自分が人の子の親になってみてわかるのです。

上京してからしばらくして母は体調をくずしました。デイサービスも含めると、昨年亡くなるまでの晩年の殆んどを緑寿園のお世話になって暮らしました。自宅での介護が難しい状況でしたので、入園してからは、母も私も私の家族も本当に救われました。ありがとうございました。

母が生まれ育ったのは北海道オホーツク海沿岸の斜里という小さな町です。東に知床国立公園をかかえる、本当に自然の豊かな所です。母が小さかった頃には、家のまわりでも様々な野生動物が見られたそうです。熊、鹿、キツネ、タヌキ、そして流氷にのってやって来るトドなどの話を私の息子にも面白おかしく話して聞かせていました。

母は今、大自然に囲まれた海辺の墓所に、父と二人眠っています。
さようなら、母さん。やすらかに。(金森しげ子様ご家族)


「忘れられない母の笑顔」  小林 弘子
私と母は、とても仲が良くご近所の方が「実の親子でしょ」と間違えてしまう程でした。それは、母が優しく娘のように接してくれたからだと思います。

私たちは、良く旅行にも出掛けました。「今度○○に行こうか」と話すと子どものような笑顔で喜び、何処に行っても花や景色を見ては歓声をあげていました。三人の旅行はどれも楽しい母との思い出です。母は誉め上手で「弘子さんはお料理上手ね」とか「弘子さんは働き者ね」と笑顔で誉められると実際は違うのにその気になって頑張ってしまいます。そんな母が、物忘れが多くなり、三年前にそれが病気からだと分かりました。母の顔から、笑顔がなくなり始めた時、緑寿園のデイサービスに通い始めました。

「今日は、絵を描いたのよ。皆さんに拍手をしてもらったの」「今日はお皿を作ったのよ」などなど。本当に嬉しそうな笑顔。十一月の文化祭の時の誇らしげな顔。「家族」と描かれた四枚の絵は。素晴らしいものでした。

病気がだんだん進行するにつれ、母の笑顔がなくなりました。昨年三月に緑寿園に入所。再び母の笑顔が戻ってきました。「お母さんの笑顔が見たい」そんな思いで家族は面会に行き、帰りには面会に行った私たちが元気を貰っていました。スタッフの皆さん本当にありがとうございました。

母がなくなってから五ヶ月。台所に立てば、「お母さん今夜のおかずは○○ですよ。」出掛ける時には、「お母さん行ってきま〜す」いつまでも私の中に母の笑顔があります。

お母さんたくさんの笑顔をありがとう。(小林絹子様ご家族)


「供養」するということ  宗洞宗僧侶・センター職員  三浦 正信
盆供養・先祖供養・施餓鬼供養というように私達の生活の中でよく「供養」ということが行なわれる。緑寿園でも物故者(もっこしゃ)の供養祭が毎年とりおこなわれています。

ほとんどの場合、供養するということは自分の先祖やご縁のあった故人に対するものです。そして、先に逝かれた方の仏(神)のもとでの安らぎを願うことが中心になります。

仏教では、願いを『誓願』(せいがん)として説きます。つまり、片手だけのお願いごとではなく、もう一方の手で自分の誓いを示すことが大切になります。両手を合わせる合掌には、そんな意味もあるように思えます。

仏や先祖の前で手を合わせ、その方々の安らぎを願う――そのことが同時に自分自身の心の安らぎになります。そんなときには、仏教でいう悪業(ごう)――貪(むさぼり)・嗔(他人への悪口いかり)・痴(おろか)の心は生まれてきません。むしろ他人へのやさしい思いやりのような心が生じてきます。それが、仏や観音の慈悲心なのです。その心を大事にして生きることが誓願なのです。たとえその道が遠いものであっても――。

供養するということは、拝むと同時に自分自身が仏の光に照らされることです。光に照らされれば、そこに影があらわれます。自分ではなかなか気づかない影です。そのごまかしようのない自分の
姿(影)をみつめて、正すところを正して一歩でも進めることができたときに、そこに仏の救いがあります。




供養祭によせて 自立した生活 2002年度会計報告

このページのトップに戻る