ハートをもった女性 前のページに戻る
みんなのほほえみ
・ ふるさと  横田敏子 長女 野崎明代
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母のふるさとは、この緑寿園のある西東京市内の栄町です。地図で見ましたら、距離にして四キロメートル北に行った所です。緑寿園に入園が決まった時、不思議な縁を感じました。

母は、それはそれは、実家を愛し、晩年の二十数年間は、度々訪れていました。今では都市化が進み、住宅が建ち並び、マンションも何棟も出来ています。昭和三十年代までは、広々とした畑がどこまでも続く中に、屋敷森が点々とある農村地帯でした。

終戦間近の昭和十九年から二年近く、母、弟、私の三人は、母の実家に疎開しました。母の姉の家族も疎開して来て居り、従兄姉達と賑やかな毎日でした。今でも目を瞑ると、当時の風景が懐かしく浮かび上がってきます。正面の大きな屋根付きの門を出て、真っすぐ南に伸びている石畳の通路を歩いて、小川の小さな橋を渡ると畑に出ます。何処までも続いているかに見える畑が、前に左右に広がって、空は遮えぎる物は何もなく、青々と果てしないのです。遠くに屋敷森が見え、右手に茅葺(かやぶき)の家が一軒ありました。遠く南に、西武池袋線が通り、風にのって電車の音が聞こえてきました。春には上雲雀(あげひばり)、夏には祖母とミョウガ取り、小川にはザリガニがいて、蛍が飛びました。北にある裏門を出ると、右手は、うっ蒼とした竹林、左手は椚(くぬぎ)等の雑木林で、昼間でも怖い様でした。そこを我慢して歩くと、パッと視界が開けて畑に出るのです。またしても、何処までも続いて行く畑と、果てしなく広がる青空。遠くに見える街道までは、くねる農道だけ。畑で働く人の姿が小さく小さく眺められるだけ。母は、この様な風景の中で育ち、昭和十年に都心に嫁入りました。十年余りを過ごした都会は、好きではなかったと言っていました。

六十歳を過ぎてからは、本当に良く実家に行きました。春秋の彼岸、竹の子掘り、お盆、銀杏拾い、小正月、何かと用を作って出かけました。八十五歳で病に倒れるまで、一人で行っていました。駅から実家までの道の途中に、両親と先祖のお墓があるので、必ずお参りした様です。それも楽しみの一つだったのかも知れません。それと、唯一人の兄が健在で、歓迎してくれたので、行き易かったのでしょう。寝たきりの状態でも、度々「保谷の家に行きたい。車で連れて行って。」と家族にせがみました。それほどに、母にとっての実家は、恋しく懐かしく大切な場所だったのです。在りし日の、あの田園の風景を想い描くと、私でも心の中が、温かくゆったりとしてきます。まして、明治四十五年に生まれてから、二十三年間を過ごした母の気持ちを察すると、さぞかしであろうと想い至ります。ふるさとを一生涯、愛し続け、晩年まで訪れ続けられた母は、幸せな人だと思うこの頃です。

母が緑寿園にお世話になって、六ヶ月余りが経ちました。母が愛して止まなかった、ふるさとの地に在る緑寿園にて、温かい介護を受ける縁(えにし)を有り難く思っています。

職員の皆様方、今後とも、母横田敏子を、よろしくお願い申し上げます。