ハートをもった女性 前のページに戻る
みんなのほほえみ
・ 夢   副園長 小川 茂
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昭和5年(1930)岩手県宮古町(当時)呱呱の声をあげた。聞くところによると当時は金融恐慌のあとの不景気、昭和6年の満州事変などが起こり、とうとう昭和12年7月12日、日中戦争となった。私はこの年小学校1年生になった。戦争は益々苛酷となり拡大していった。昭和16年12月8日ついに太平洋戦争となり米国等と戦うことになった。私はこの頃、将来、海軍大将米内光政のような軍人になろうと考えていた。それには米内の母校である県立盛岡中学校から海軍兵学校へ進むコースが最善と考え、勉強して盛岡中学校へ入学し、寄宿舎生活をはじめた。盛岡〜宮古間110km。当時の石炭による汽車では片道3時間かかり汽車通学は出来なかったからです。入学して間もなく、4月13日は啄木忌で行事があり、はじめて歌人石川啄木を知りました。その他有名な先輩のそれぞれの記念祭がありました。まともに勉強したのは1年生の時だけで、朝5時に起床、先輩からサッカー(当時ア式蹴球と云った)で約1時間クタクタにもまれて廊下、部屋の掃除のあと朝食、そして地続きの学校へ3分位で登校という学校生活だったから遅刻はなかった。

その後昭和20年8月15日までは勤労奉仕や学校動員の連続だった。戦争が苛酷になり、それでも日本は勝っている(としか報道されなかった)と思って一生懸命土木作業をした。なんでも飛行場を作るんだと聞かされていた。小高い丘を切り開き田んぼをその土で埋めて平地にしてローラーをかける---これが極秘特攻隊用飛行場だった。岩手県下の中等学校3年生約1000人が村の小学校を宿舎に3ヶ月働いて作り上げた。しかし実戦には1機も飛べなかったそうだ。燃料がない・部品がないなど。その「幻の飛行場」が想い出の記録として今年12月に発刊されることになった。県下動員参加校の投稿と地元役場関係者の資料等1年以上の編集会議を重ねての結果である。

6年前、中学時代の多事多難を若さと友情とで切り抜けて今日なお友情を保ちつつ人生を振り返りながら余生を楽しむ仲間と「中学時代を語ろう会」を当初7人のメンバーで始めた。1泊して湯につかり、酒を汲み交わしながら中学時代の想い出話を語り明かそうという趣旨であって、今年9月で8回目にあたる。はじめの頃は1年に春1回であったが、数年前から年2回、春・秋に催すようになった。いつの間にか、次は何月頃、何処にしようかと、次回の旅行を決めて散会する慣例になっていた。今回9月の旅行は、4月の集いのときに決めた信州「安曇野」であった。農林省出身のNT君がきめ細かく資料を集めて計画を立ててくれた。今回は退院間もないTL君と療養中のTA君が欠席。5人を2台の車でそれぞれ担当の仲間の家へ迎えに立ち寄り、三鷹の駅前に集合して出発した。

まさに、「文化とロマン」の旅で「早春賦歌碑」、戦後ラジオドラマで子供向け放送の「鐘の鳴る丘」「トンガリ帽子の時計台」「萩原碌山美術館」「有明美術館」等々絵画・彫刻等々北アルプスの山麓に広がる安曇野の田園風景で、特に小高い丘の立つ「有明美術館」の玄関からの眺めは、思わず「すばらしい」の連発だった。自然のたたずまいの中にひたって「語ろう会」もいつまでも続くものと確信しました。そして、やがて数年後には誰かが車椅子のお世話になるだろうからそのときは夫婦同伴の旅行にしようとみんなで決めました。

又来年の秋は第10回になりますので「記念誌」の出版も話し合いました。精神的にはいつまでも若い頃の「中学時代」でいたいという夢を持ちつづけようということが長生きのキーポイントかなとも思っている今日この頃です。